Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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始原的習慣としての「自己の身体」のクオリア性から<世界>の空無化へ――「生体政治工学」の分析論に向けて


本論では、先行論文の位置づけを持つ「患者に対する介入実践の倫理学序論」の末尾で予告したように、考察対象として(「幻肢痛」を含む)「幻影肢」のメルロ=ポンティによる解釈を取り上げる。さらに、「クオリアの問題圏」から出発してメルロ=ポンティ晩年の存在論へと到る道筋を経由した上で、他者に対するあらゆる(と想定される)介入実践に潜在する困難を孕んだ理論的・実践的課題がそこから浮上してくるであろう「生体政治工学的介入」の問題圏へと議論を接続する。
第1章 プロローグ:「要素還元主義」批判あるいは意味の全体論
「患者に対する介入実践の倫理学序論」の議論を経ることによって、われわれは、かつてメルロ=ポンティの論じた始原的習慣としての「自己の身体」という次元が、いかにしてそれ自身のあるべき場へと向かっていくのかという根源的な問いに遭遇した。言うまでもなく、この問いは、その「あるべき場」とはいったいどこなのかという、いまだその答えが明らかではない問いと不可分である。言い換えれば、この問いはさらに、「この問い自体が無効になった、われわれにとってこれまでは未知であった(はずの)ある領域に、われわれはすでに足を踏み入れているのではないのか」というもう一つの問いへとその姿を変え得る。あるいはむしろ、すでにそうした問いへと変容してしまったともいえる。むしろそのときこそ、あの「あるべき場(の消滅)」とはいったいどのような事態だったのかが、そしてこの問いを問う「われわれ」とはいったい誰なのかがあらためて問われることになる。そしてこの問いは、少なくてもさしあたってはその問いの主体を欠いた、おそらくは終わりのない問いであるだろう。
以上提起したいくつかの問いとともにその素描がなされた探究作業を開始するに際して、われわれは――もちろんこの「われわれ」はいったん括弧に入れられた暫定的な問いの対象となっているのだが――まず、「身体」を巡るメルロ=ポンティの考察がそこから始まった端緒をなすと考えられる「要素還元主義」批判というテーマを取り上げる。ここで「要素還元主義」とは、何らかの観察またはそれにともなう測定によって定量的に同定可能な「刺激-興奮」という「要素=単位」の特性(要素的属性)を抽象(想定)し、それらを足し合わせた(すなわち数値化されたそれら特性を一定の演算によって計算した)「総和」(計算結果)を一義的に導出できるという「思考の図式」と定義する。なお、こうした思考の図式において、「刺激-興奮」としての(またはその「刺激-興奮」の)「要素=単位」は、それといわばワン・セットとなって対をなす「入力-出力」という今ひとつの抽象化の観点から測定(数値化)された「ニューロンネットワーク」の機能的単位(「活動電位action potential」あるいは膜電位の変化の単位)と言い換えることができる。ただし、ここでは、現時点での狭義の科学としての「脳神経科学」研究――あるいは計算機上でニューロンネットワークの機能特性をシミュレートした「ニューラルネットワークモデル」、とくにその「並列分散処理モデル」に依拠するいわゆる「コネクショニズム」等――の試みにおいて、上記に定義した「要素還元主義」が乗り越えられているのかといった二次的な問いは、本論での探究作業を分散させるため括弧に入れている。
さて、上記「要素還元主義」は、その定義から明らかなように、何らかの「実体的」枠組みを前提するものではあり得ない。むしろ現代における上記「要素還元主義」の主要形態は、しばしば「意味論を捨象した情報理論」をベースとした「機能主義」という立場を取る。この「意味論を捨象した情報理論」をベースとした「機能主義」はしかし、以下のような問題を抱えている。ここでは、その問題を「クオリアの問題圏」において指摘している茂木健一郎(1998,1999)から引用する。
 「クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。(略)機能主義者は、しばしば「情報」という概念に言及する。ここで言う「情報」とは、意味論を捨象した、シャノン的な意味での情報概念である。シャノンの情報概念は、統計的描像に基づいており、情報の意味論には何ら関与しない。それにも関わらず、シャノン的な統計的猫像に基づく情報概念が、脳の情報処理を解析するために用いられて来た。私たちのある事物の認識は、その事物にだけ選択的に反応する性質(反応選択性 response
selectivity)を持つニューロン群の活動(一般には、時空間的なパターン)によってもたらされるという考え方が典型である。反応選択性は、統計的にしか定義され得ず、個々のニューロン群の活動の時空間的なパターンがいかにして私たちの心の中にある一定のクオリアを生むのかという心脳問題の核心には答えることができない。(略)クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように生まれてくるかということは、デジタル・コンピュータにおけるコーディングと同じ思想に基づいている「反応選択性」の概念では説明できない。私たちは、認識におけるマッハの原理(Mach's Principle in Perception)から出発しなければならない。クオリアは情報の意味論的側面と深く関連する。クオリアは、シャノン的な情報理論では全く解明することができない。」
(茂木1998,1999.http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html)
これによるなら、「機能主義」としての上記「要素還元主義」は、「私たちのある事物の認識は、その事物にだけ選択的に反応する性質(反応選択性 response selectivity)を持つニューロン群の活動(一般には、時空間的なパターン)によってもたらされるという考え方」を基本的な思考の図式としている。これに対する茂木の批判は、この図式を成立させるはずの「選択的反応の一義性」あるいは「ニューロン群の活動の時空間的なパターン」が実際にはその「一義性」を持ち得ないこと、あるいはこの場合同じことだが、その仮想的な一義性は実際には「統計的にしか定義され得ず」、私たちはその統計的な計算結果を、そのつど生成する「クオリアの経験」とまったく結びつけることができないということに向けられている。以後この批判をメルロ=ポンティによる「要素還元主義」批判あるいは「刺激-興奮モデル」の批判的乗り越えの作業と交差させてみよう。
メルロ=ポンティによれば、そういった刺激-興奮の「総和」、すなわち選択的反応の一義的な演算=測定結果(数値化されたニューロン群の活動の時空間的なパターン)を「超越」するものとして、われわれにとっての「意味」がある。「超越」としての「意味」。ところでこの「超越」に関して、メルロ=ポンティ晩年の研究ノートには、「超越(対象の所有ではなく、隔たりの思考としての)」(メルロ=ポンティ1964.p.251. 訳 p.281.)という一節がある。ここでの文脈に即して言い換えるなら、この「隔たりの思考としての超越」とは、統計的な計算結果としてのニューロン群の活動の時空間的なパターンとクオリアの経験との間を穿つ「隔たり」において、われわれの思考がそのつど生成するという出来事そのものだといえる。だからこそ、われわれにとっての「意味」は、上記引用文における「クオリア(の経験)」という生成プロセスなのである。
逆にいえば、そうした「総和」の測定(計算・数値化)を可能にする「刺激-興奮」という「要素=単位」も、またそうしたものの「要素的属性」も、それ自体としては、ある固有な出来事の生成プロセスとしての、われわれにとって「意味」のあるもの(意味するもの)とはなりえない。もし「刺激-興奮」という何かが、われわれにとって同定可能な「刺激-興奮」という「図」(そのつど同定される意味)として現われてくる(意味する)とするなら、そのときのその「図」に対する「地」としての「状況の意味」、あるいはその「刺激-興奮」がわれわれにとってある固有な「意味」として現われ得る(意味し得る)ためのいわば「可能性の条件」が探究されなければならない。この「地」としての「状況の意味」、あるいは可能性の条件は、メルロ=ポンティによって「世界内存在」と呼ばれる。

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